ロボティクスについて考えていると、哲学的な問に突き当たることが多いように思う。
例えば、我々は片目をつむった状態で少し離れたところにある物(例えば携帯電話)を掴みとる、と言った動きをすることができる。
しかしながらこれをシングルカメラのロボットで実現しようとするとうまくいかない。
これは明らかに、”私”がものをつかもうとした際に、視覚情報以外のインフォメーションを用いて行動を起こしていることを意味する。
具体的には、おそらくは経験則から、携帯電話は概ね手に収まる大きさなので、それがその大きさに見える距離に存在するのだろう、というふうに考えていると推測される。だから我々は、だまし絵やトリックアートに騙される、という現象も経験することができるのである。(そういう意味では、生まれたての赤ちゃんはだまし絵に騙されないと考えられる。それを確かめるすべは存在しないが。)
ロボットに所望の動作をさせようとすれば、その動作のために少なくともどういったインフォメーションが必要か、またその情報が得られない場合はどのような代替情報から推測する必要があるか、ということを考えなければならない。日々無意識に行っている動作を細分化し、機能毎に切り分けていくのである。
それは即ち、”見る”とはどのような行為だったのか、物を”在る”と認識するのはどういった情報と人間の無意識における思考の結果だったのかという類のことを追求していく作業である。
もちろんそういった工学的(物理学的・精密科学的)な論法と思考手法のみをもって、「哲学をしている」とおおっぴらに言うのは憚られるのだが、少なくとも私は、ひとつのきっかけとして面白いことだと感じている。
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