2013年9月12日木曜日

インスタント化する世界

 現在、世の中にある多くのものが「インスタント化」する傾向を持っていると私は考えている。例えば一昔前にはネットで情報を公開するためには、ユーザが自らHTMLファイルを作成しサーバーにアップロードする必要があったが、それが簡単に投稿可能なBlogというシステムに置き換えられ、更に最近ではそのBlogもフェイスブックやTwitterにその座を奪われつつある。この流れの本質は「簡易さ」と言える。

 これと同様の変化がゲーム業界でも起こっている。資金と手間をかけた大作のゲームが、チープなソーシャルゲームに敗北するという現象が起きている。この理由も明快で、「手軽」だからだと考えられる。スマートフォンが普及しただとか、コンシューマ機のソフトが複雑化・高コスト化し過ぎただとかいろいろな議論はあるが、突き詰めれば「簡易さ」に負けたというところに集約されるだろう。

 これは忙しい現代人に対して需要と供給が成り立ったという意味では、何ら問題はなく適切に進化したのだと捉えることもできるが、私はこれにより一つ重要な問題が起きるということを主張したい。

 すなわち、現代人は一つの物事に対してじっくり取り組む機会が奪われており、これは人の成長において著しい悪影響になりうる、ということである。

 勉強でもゲームでもそうだが、一つのことを極めようと努力すると、その過程で試行錯誤した経験により、新たな分野(この場合は新しい教科・学問領域、あるいはゲームとか)にチャレンジしようとした際の理解速度は随分違う。直感的には、基礎能力が同程度という条件下で数学をすごい頑張った人とそうでない人とでは、経済学を学ぼうとした時の習得速度に大きな差が生まれるだろうという予想から、この主張の妥当性を考えることができるだろう。

 だから思春期には、よく悩みよく考えて、何かに打ち込むことがやはり必要だと思われるのだが、社会で供給される娯楽がことごとく「インスタント化」されているとその機会は失われがちになるのは間違いない。
 それでも、チープな中にも奥深さを見出すのが若者のたくましさでもあるが(いわゆるクソゲーでもきっと幼いころはそれなりに楽しめたはずだ)、元々の作りの底が浅ければ、やはり限界は早く訪れるだろう。

 なので私は、思春期を超えるまでの間は子供にスマートフォン(その時には死語になっていそうだが)を自由に使わせないつもりでいる。



 自己コメント: 何分文献等がないため、説得力に欠けます。また、色々細かいことを説明するのが面倒になったので、文脈がかなり強引です。この手の記事2個めということで大目に見てください。

2013年9月4日水曜日

ロボティクスと哲学

ロボティクスについて考えていると、哲学的な問に突き当たることが多いように思う。
例えば、我々は片目をつむった状態で少し離れたところにある物(例えば携帯電話)を掴みとる、と言った動きをすることができる。

しかしながらこれをシングルカメラのロボットで実現しようとするとうまくいかない。
これは明らかに、”私”がものをつかもうとした際に、視覚情報以外のインフォメーションを用いて行動を起こしていることを意味する。

具体的には、おそらくは経験則から、携帯電話は概ね手に収まる大きさなので、それがその大きさに見える距離に存在するのだろう、というふうに考えていると推測される。だから我々は、だまし絵やトリックアートに騙される、という現象も経験することができるのである。(そういう意味では、生まれたての赤ちゃんはだまし絵に騙されないと考えられる。それを確かめるすべは存在しないが。)

ロボットに所望の動作をさせようとすれば、その動作のために少なくともどういったインフォメーションが必要か、またその情報が得られない場合はどのような代替情報から推測する必要があるか、ということを考えなければならない。日々無意識に行っている動作を細分化し、機能毎に切り分けていくのである。

それは即ち、”見る”とはどのような行為だったのか、物を”在る”と認識するのはどういった情報と人間の無意識における思考の結果だったのかという類のことを追求していく作業である。
もちろんそういった工学的(物理学的・精密科学的)な論法と思考手法のみをもって、「哲学をしている」とおおっぴらに言うのは憚られるのだが、少なくとも私は、ひとつのきっかけとして面白いことだと感じている。